5:5~10 「御子は大祭司として資格のあるお方」

ヘブル 5:1 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。
 2 彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。
 3 そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。
 4 まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。
 5 同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、 「あなたは、わたしの子。 きょう、わたしがあなたを生んだ。」 と言われた方が、それをお与えになったのです。
 6 別の個所で、こうも言われます。 「あなたは、とこしえに、 メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
 7 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。
 8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
 9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、
 10 神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。
 (ヘブル 5:1-10)

 

ここでは、先述の大祭司となるために先述した4つの前提を、御子が全て満たしていると教えています。

御子は神的に任命された方であるのが明確です(5~6節)。
詩篇2:7は、メシア預言の聖句で、メシアの大祭司としての就任は復活と関連しているのが分かります。

「わたしは主の定めについて語ろう。 主はわたしに言われた。 『あなたは、わたしの子。 きょう、わたしがあなたを生んだ。 (詩篇2:7)

詩篇110:4では、祭司として直接に父なる神様から任じられています。
しかも地上にあるレビ体系ではなく、別個であるメルキゼデク体系での祭司です。

主は誓い、そしてみこころを変えない。 「あなたは、メルキゼデクの例にならい、 とこしえに祭司である。」 (110:4)


❷御子は、人間性を備えられた方です。
「人としてこの世におられた時」とは、受肉から復活までの期間です。
主は「祈り」ました。それは一般的な必要を訴えられことを意味します。
また「願い」ました。それは緊急の必要を訴えられたことを意味します。

それを2つの方法でなされました。

⑴大きな叫び声をもって
苦悩ゆえに大きな声で呻いている状態。

⑵涙をもって
激しい悲しみの感情が吐露された状態。

この主の状態は、ゲッセマネの祈りで見受けられるものです(ルカ22:44)。

「敬虔のゆえに聞き入られた」とありますから、主のこの祈りは父なる神によって応えられたのです。

それではどのようにして、主は死から救い出されたのでしょうか?

2つの解釈が可能です。

肉体の死を十字架で遂げられますが、3日後に復活され、肉体が死から救い出されたという解釈。

もう一つは、霊的な死を十字架上で3時間経験されますが、息を引き取る直前に霊的に復活され、それから肉体の死を遂げられたという解釈。

これは父なる神様から断絶され「父よ」と呼べずに「我が神よ」と呼ばざるを得なかった数時間から分かることです。

何れにしても、主のこの祈りは叶えられたのでした。
主は人として、激しい苦闘の中から、涙を持って祈りと願いとを捧げられました。

 

❸御子は憐れみ深いお方です(8節)。

御子は特に従順を学ばれることによって、憐れみ深い方となられました。従順は苦しみを通して学ばれたことです。

御子は神様のかけがえのない子供であられましたが、訓練を忍ばれました。ゆえにさらに人としての立場を確立されたのです。

「従順を学ばれた」とは単に不従順でなかったことだけを意味しているのでありません。

それば従順が彼にどんな代価を払わせたかを意味するものです。
その代価が受難でした。

その任務には、何ら自己追求は見出されません。


祭司としての役割には、受難と死があるのみでした。
そしてこれらのことが御子を憐れみ深いものとしたのです。


❹御子は祭司としての役割を完遂されたお方です(9ー10節)。


「完全な者とされ」とありますが、ギリシャ語の原意は「プロセスまたはゴールを成し遂げる」という意味があります。
主は十字架上で「完了した」(ヨハネ19:30)と言われましたが、その主の言葉はここでの「完全」と同じルートを持つものです。

ここでは2章10節の言葉が再び取り上げられているようです。

 「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。 」(ヘブル2:10)

受けられた受難により、主は全うされました。
十字架での苦難が、主の目指していたゴールを成し遂げさせるものとなりました。
主は、従うすべての人に対して永久の救いを与えることのできる方、となられました。

神の視点から見て主の働きが「完成された」のですが、人の視点から見ると(永久の救いを与える方に)「なられた」のです。


主は結果的に、永久の救いを与える方になられました。
受難と死を通ることによってです。
主ご自身が、最終的な効力のある捧げものとなられたのです。
それは神様に従う人々に対してだけ与えられている特権です。

そしてここで「従う」とは行為のことでなく、信仰の従順のことです。
救いは、行いではなく信仰によって与えられると聖書は一貫して教えています(ヨハネ6:29、使徒6:7など)。