2:10-18 「御子は救いを与えることが出来るので御使いに勝る」その2

ヘブル2:10~18

 このセクションでは、メシアの死の目的が扱われています。

多くの子供たちを栄光に導くためには、メシアは死を経なくてはならなかったのです。

堕落した人のために神は救いを備えられましたが、御使いのためにはバイパスしました。堕落した御使い(悪霊)のために購いはありません。その意味で贖われた者(信者)は、堕落した天使より高い地位にあるのです。

これがやがて「白い御座のさばき」のとき、信者が御使いたちをもさばくことになると教えられている所以です。

「私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。」 (Ⅰコリント6:3)。

 神は御使いでなく、人を選び救おうとされました。

その救いのためには、御子であるメシアが人間となって肉体をとり(受肉)、十字架にかかり死ななくてはならなかったのです。このセクションではさらにこの受肉と死の目的について4つの理由が挙げられています。

 

1)      多くの子供たちを栄光に導くため 2:10~13

2)      死の君主に打ち勝つため     2:14

3)      信者を解放するため       2:15

4)      人を助けるため         2:16~18

 

先回に引き続き、ここでは4番目を扱います。

  人を助けるため   2:16~18

「16 主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。

 17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。(新改訳)

 

この聖書箇所を理解するには、旧約時代のユダヤ社会にあった「親類による購い(買戻し)制度」を知る必要が在ります。

ここでヘブル原語の「購い」と「買戻し」は同一の言葉となっています。

さて、モーセの律法の下にあるユダヤ人が経済的に困窮して借金を返済できなくなった場合、一つの選択肢しかありませんでした。それは自らを奴隷として売り渡し、6年間働くというものです。7年目はヨベルの年で、すべての負債が帳消しにされます。

 しかしながら、奴隷として身を渡した段階になって、もう一つの選択肢が可能となります。それが「親類による購い(買戻し)制度」というものでした。

裕福な親族がその負債者の債権を肩代わりに支払うなら、6年間奴隷となる必要はなく、直ちに自由の身となれるのです。

その親族が買戻しの権利があるかどうかを判定するには、3つの要件がありました。

1)      彼は親戚でなくてはならず、他人がどんなにお金を積んでも買戻しは出来ません。

2)      負債者のすべての負債を完済できる金額を支払う能力がなくてはなりません。

3)      その親戚が自ら支払う意思がなくてはなりません。義務感で肩代わりしてはならなかったのです。

 聖書は私たちすべては罪びとであると教えます。そして罪を犯したものは、「罪の奴隷」だというのです。

同時に、主イエスは私たちにとって親族となり、これら買戻し(購い)のためのすべての資格を兼ね備えたお方であられます。

1)      受肉により人間となられました。よって血液によって人間性と結びついている存在です。さらに「アブラハムの子孫」として誕生されたことは、ユダヤ人との特別な血のつながりがあります。

2)      イエスは購い金(買戻し金)を支払ってくださいました。その購い金とは、罪のないご自身の血でした。モーセの律法を完全に守った唯一のユダヤ人であられたゆえに、罪のない血を主はお持ちでした。

3)      その購いの代価を自ら望まれて支払われたのです。それが「誰もわたしからいのちを取るのではありません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。」(ヨハネ10:18)と主が仰せられた意味です。

主こそ、罪の奴隷であり霊的に破産状態にあった(天国へ行けるほど良い人間でなかった)私たちを購う(買戻す)権利・資格を有するお方です。

 

 最後に18節を考察します

18 「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」

ここでは人生の戦いの中にあるそれぞれの個人に、主がどのように働いてくださるかが教えられています。

「すべての点で兄弟たちを同じようになられた」(17節)点とは何か、それは「試み」と「苦しみ」であります。

主はこれら二つをつぶさに経験されました。ゆえに私たちの人生の歩みにあって助けることがおできになるのです。

ここで使われている「助ける」というギリシア原語は二つの語から成り立っているもので、「泣いている者の所に走り寄る」という意味です。

私たちがある必要に迫られて泣かざるをえないとき、主はあなたのところへ走り寄って助けてくださるのです。私たちが試み(誘惑)に遭うとき、また苦しみの最中にあるとき、主は駆け寄って来て、アシストしてくださるお方です。

 主は救いの業を創始され、きよめられるお方、またサタンを征服されたお方であるばかりでなく、同じ思いに立つ(Sympathizer)ことの出来るお方です。たった今も試みに遭っている者とともに思いを同じく(Sympathizer)してくださるお方です。