3:7~11 「回帰不能点に到達する前に」

 7 ですから、聖霊が言われるとおりです。 「きょう、もし御声を聞くならば、
 8 荒野での試みの日に 御怒りを引き起こしたときのように、 心をかたくなにしてはならない。
 9 あなたがたの父祖たちは、 そこでわたしを試みて証拠を求め、 四十年の間、わたしのわざを見た。
 10 だから、わたしはその時代を憤って言った。 彼らは常に心が迷い、 わたしの道を悟らなかった。
 11 わたしは、怒りをもって誓ったように、 決して彼らをわたしの安息に入らせない。」
 (ヘブル 3:7-11 JAS)

 

不従順の危険に対する警告ーその2回目(3:7-4:13)

①旧約聖書からのレッスン(3:7-11)

 この聖句は聖霊によって書かれた詩篇95:7-11からの引用で、エジプトを脱出したイスラエルの民が神の「み怒り」を引き起こしたような過ちをしないように警告されています。
ギリシア語の「み怒り」は、新約聖書全体で3回だけしか使われてなく、そのすべてがこの3章にあります(8,15,16)。
モーセはイスラエルの子たちが10度も不従順を重ねたと記録してますが(民数14:22)、この「み怒り」を引き起こしたカデシュバルネアという場所は他とは違うターニングポイントとなったのです。


 9節の荒野をさまよった「40年間」とは、読者にとり重要な意味を持ちます。それは主の十字架からすでに40年が過ぎようとしている時に本書が書かれたからです。
神は出エジプト世代の者たちを「常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった」としていかられたのです。著者と同世代の者たちと並行させた書き方です。
その神の怒りの結果は「決して彼らを安息に入らせない」(11)、つまり約束の国カナンには誰もが入れなくなりました。入れたのは子供たちと信仰を貫いたヨシュアとカレブのみなのです。


  「約束の国」とは、英語圏の讃美歌では死後に行く天国であると多くの場合歌われてきました。しかし聖書的にはそこは「安息の国」であると理解されるべきものです。
イスラエルの民は、エジプトでの奴隷状態から贖い出されたにもかかわらずに約束の国での祝福を受けることに失敗しました。信仰に踏み止まらずに不従順を続けたからです。
カナン安息を失ったということです。それはきよめられた者が与る安息であると旧約聖書からも教えられているものです(申命記1:34-36,12:9-10)。
その安息とは、神の力に、貴方の心も思いも意思も全てを従わせることから来るもので、罪を征服させるものです。ヨシュアは民を約束の国に導いた時、先住民を征服して安息を彼らに与えました。それがモチーフとされて霊的なレッスンが語られるのです。

 ただそのカナン入国世代は出エジプト世代とは異なります。
入れたのは荒野で産まれた新しい世代なのです。
一度贖われた民であっても信仰に留まらないなら、楽しめたはずであろう祝福を失うことがあります。不従順の出エジプト世代は失敗の後に悔い改め、神から赦されていると明瞭です(民数14:20)。
しかしながら肉体的な結果を刈り取らねばならなかったのです。
この点が、本書の十字架の40年後世代に適応されている点です。
彼らは回帰不能点に到達し、肉体の死を招く危険にさらされている状態だと指摘されているのです。


 一度回帰不能点に到達したなら神のさばきを受けなくてはならないというのが聖書の原理です。
そのさばきは肉体的なもので、霊的なものではありません。つまり救いを失うことではないのです。民数14:20で人々が悔い改め、神が罪を赦されたとあります。個人の救いまでは影響力を及ばせずとも、肉体の死という結果を払わなくてはならなかったのです。
回 帰不能点に達したなら、どれだけ熱心に悔い改めようとも肉体的なさばきを逃れることはできません。モーセでさえもこの点から漏れることはなかったのです。 彼はたった一つの罪によって約束の国の外で死ななくてはならなかった。彼の救いが取り去られたわけでないのですが、肉体の裁きを刈り取ったのでした。


 不従順の結果は永遠の救いを失うことではなく、一時的で肉体的なさばきを招きます。それは肉体の死であり、本来楽しめたはずの祝福を経験できないことにあります。