ユダヤ人のイエスが日本人に関わりあるのか

マタイ福音書連続講解説教②  マタイ1章1~17節

「メシアの系図・その2」 ~異邦人のためのメシア~

 {メッセージからの抜粋}

 

 震災1ヵ月後になる昨年の4月11日,ワシントンDC・にあるナショナル大聖堂にて,「日本のための祈りの会(A Prayer for Japan)」が開かれ、政府関係者はもとより宗派を超えた代表が集まりました。

そのとき「さくら・さくら」が演奏され、宮沢賢治の「雨にも負けず」が朗読されたのです。

 

「雨にも負けず」

「雨にも負けず、風にも負けず、

雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、

決して怒らず、いつも静かに笑っている。

 一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ、

あらゆることを自分を勘定に入れず、

よく見聞きし分かり、そして怒らず、

野原の松の林の陰の小さな藁葺きの小屋にいて、

東に病気の子どもあれば、行って看病してやり、

西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、

南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、

北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い、

日照りのときには涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、

みんなに木偶(でぐ)の坊と呼ばれ、ほめられもせず、

苦にもされずーーそういう者に私はなりたい。」

 

 この有名な詩にはモデルがいたのです。

 

 でくの坊と呼ばれ」た「そう言うもの」とは、斉藤宗次郎であるとされています。彼は禅宗の三男として生まれ、内村鑑三の影響を大きく受けて23歳の時洗礼を受け、花巻市でははじめてのクリスチャンとなりました。

 

当時はキリスト教が「耶蘇」と呼ばれ、人々から迫害を受けていたころで、度々いわれの無い中傷を受ます。親からさえも勘当され、生家に立ち入るのを禁止されました。投石を受けるのも日常茶飯事の中で、迫害は家族にも及びます。天長節(天皇誕生日)祝賀会の式場で、宗次郎の長女、愛子は「耶蘇の娘」と、虐められ、男子生徒に腹を蹴られそれが原因で腹膜炎を起こし、数日後わずか9歳で死んでしまうのです。亡くなる時、愛子ちゃんは、讃美歌を歌って欲しいと言い、讃美歌を歌うと、「神は愛なり」と書いて天に召されたそうです。

 宗次郎はそのような苦しみの中で、神様に祈りました。そして、彼は「御心がなりますように」とくじけることなく神様を信じ、神様に従い続けたのです。

 

教職を追われた後、彼は新聞配達をして生活しました。彼は新聞を配りながら、一軒ごと家の前で立ち止まり、その家の祝福を祈りました。朝3時から夜9時まで働き、その後の夜の時間は聖書を読み、祈る時としました。そのような厳しい生活の結果、ついに結核にかかり幾度も喀血たといいます。しかし不思議と体は支えられ、そのような生活も20年間も続きました。朝の新聞配達の仕事が終わる頃、雪が積もると彼は小学校への通路の雪かきをしました。小さい子どもを見ると、だっこして校門まで走って届けました。彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく、地域の人々のために働き続けたのです。新聞配達の帰りには、病人を見舞い、励まし、慰めました。

 

 宮沢賢治とは農学校からの親しい交流が続けられていました。新聞配達も20年という年月になる頃、内村鑑三の要請を受けて、宗次郎は東京に出る決心をしました。宗次郎は自分を見送ってくれる人は一人もいないだろうと思いつつ駅に向かいました。ところがその駅には、花巻の人達が大勢見送りに来ていたのです。その中には町長をはじめ、町の有力者たち、学校の教師、 神社の神主や僧侶までもいました。さらに一般の人たち、生徒たちも来て駅じゅう人々でごったがえしていたというのです。人々は宗次郎がふだんからしてくれていたことを見ていたのです。東京に来て花巻から届いた最初の手紙は、宮沢賢治からのものであったといいます。

 

 斉藤宗次郎が宮沢賢治から手紙を受け取った5年後に、「雨にも負けず」のこの詩が書かれたことが分かっています。この詩は宮沢賢治が病床で書いた詩であり、遺稿となりました。彼の死後、彼のカバンから発見された手帳に書かれてたのです。

 

 この詩のモデルが斉藤宗次郎であると言うことの決定的証拠はありません。しかし宮沢賢治の周りにいた人物で、この詩の人物にぴったりと当てはまるのは斉藤宗次郎であることも事実です。

 

真偽は別にしても私達は、斉藤宗次郎の生涯が主イエスの言葉を生きたものであることに感銘するのです。

 

義のために迫害されているものは幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:10)

 

今回の震災は東北人の忍耐強さが世界中のメディアを通して称えられました。

 

 イエスは耐えている者、悲しんでいる者の主です。

 

ユダヤ人ばかりでなくすべての異邦人、私たち日本人にとってもメシア(主)であられます。