カルビン主義とアルメニウス主義はキリスト教界を二分してきました

マタイ福音書連続講解説教27  マタイ11章25~30節

メシアへの応答―その③:幼子たちの受容」

 {メッセージからの抜粋}

 

マタイ11章は、メシアに対する人々の応答が書かれている所です。

 

第一セクションでは、先駆者・バプテスマのヨハネの応答、

第二セクションでは、ガリラヤの町々の応答、

そして今回第三セクションでは、これらのまとめに加えて

賛同者達の応答を扱います。

 

❶ガリラヤ伝道のピークを迎えつつある時

そのとき、イエスはこう言われた。

「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。

これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、

幼子たちに現してくださいました。

そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」

(マタイ 11:25-26)

 

この節にある「そのとき」とは「カイロス」で、

質的なクライマックスの瞬間であります。

 

福音のために神の国に漏れまいと

激しく攻める賛同者たち(12節)に対して、

多くのガリラヤの町々の大多数の人たち(23節)は

主を拒絶しました。

 

成果の少なかった宣教活動に対して

主は落胆されたでしょうか?

 

いいえ、驚くべきことに、

ここで父なる神を「ほめたたえて」おられます!

 

主が父なる神に対して賞賛の言葉を語られているのは、

聖書の中で数回しかなく、とても珍しいのです。

 

❷父の御心を喜ばれるメシア

乏しい宣教の結果を見て、

それは方法や人材に問題があったからではなく、

「御心にかなったこと」であり、

全く賛同されての賞賛でした。

 

神の国の啓示=救いに至る道は、

「賢いものや知恵あるもの」に対しては隠され、

「幼子たち」に対しては現されたのです。

 

ここでの「幼子たち」とは比喩的表現です。

偏見のない素直で柔和なこころ、

純粋な真理に対する知識欲のある者たちに

福音は啓示されてきました。

 

なぜ啓示された神の国を

その人々は受容できたのでしょうか?

 

当時ユダヤ人がイエス様をメシアであると告白するならば、

ユダヤの共同体から追放される村八分とされました。

 

そこまでの犠牲と不利とを承知の上で

信者となったのは

体制側のパリサイ派や律法学者たちからも現れました。

 

ニコデモであり、アリマタヤのヨセフです。

 

職や生活を犠牲にできるほどの、

より価値高い真理とは、

「父なる神を知る」(27)ことでした。

 

その「知る」ことを得たのは、

「子が父を知らせようと心に定めた」

ゆえであると主は言われます。

 

つまり、主イエスの先行する御心なしに

だれ一人として

父なる神の啓示を受け止める者なく、

救いに至る者はありません。

 

神学的には「神による選び」、「予定論」といった深いテーマです。

これは宗教改革者の一人のカルビンがまとめ上げた教理です。

 

「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。

それで、父のほかには、子を知る者がなく、

子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、

だれも父を知る者がありません。」 (マタイ 11:27)

 

❸カルビニズムとアルメニアン主義

「神による選びなくして人の救いは無い」

これは聖書が明確にしている教理です。

 

「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、

だれもわたしのところに来ることはできません。

わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」

 (ヨハネ6:44 )

 

これをもう一歩進めるとどうなるでしょう?

「人が救われないのは、神がその者を選ばれていなかったからだ」

「神はある人々を救いに、ある人々を滅びに予め選ばれているのだ」

 

これは二重予定説と言われるもので、

カルヴィンから後世の神学者たちがたどり着いた結論です。

 

人間の論理的思考からはそのような結論となるでしょう。

しかし聖書は二重予定説を教えてはいません。

カルビンもそのことまでは言っていないのです。

 

一方イエス様はその直後にこう言われました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、

わたしのところに来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

(マタイ11:28)

 

ここでは全ての人に対して「来なさい」と呼びかけておられます。

私たちの意思に訴えておられるのです。

 

人は自らの意思により決断し、

立ち上がり、

歩いてイエス様の下に行き、

信じなくてはならないのです。

 

神が強制的にあなたを

信仰に追いやることはありません。

 

神様はあなたの同意無くして

あなたの心の領域に一歩たりとも踏み込むことができないのです。

 

すると人が救いに至るのは、

その当人の意思が必要であることも明らかです。

 

この「自由な人間の意志」という側面に着目した神学者が

アルメニウスです。

 

しばしばこのアルメニウス主義は

カルバン主義と対峙するものとして取り上げられます。

 

これはキリスト教世界を二分してしまう神学的テーマであり、

現在でも議論が続けられています。

 

それではどちらが一体、聖書的で正しいのでしょうか?

 

私の答えでは、両方とも正しいのです。

双方とも聖書が明白にしているからです。

 

ただ人間的な論理で割り切れない要素があることを

認めなくてはなりません。

論理的に一方のみを追求しすぎると、

脱線してしまいます。

二重予定説はその良い例です。

 

神による選びと

人間の意志論は

相反する論理ですが、

これを神にあって調和する一つの教えとして受け入れるのです。

 

これは、厳密な意味で理性的には

理解しえないものです。

 

これを信仰の飛躍により受容するのです。

聖書がそのように啓示していることを

私たちは受け止めるのです。

 

私たちの創造主は、

私たちのちっぽけな頭の理解の中に収まる方ではありません。

究極の意味で人が完全に理解しえない神の神秘に属する事柄です。

 

一方を強調するあまり、

他方の神学的理解をもっている教団・教派を異端視してしまうのは

賢いものではありません。

 

三位一体という、神の存在のあり方そのものが神秘です。

主イエスには100%の人間性と、

100%の神性とが

矛盾することなく調和を保って宿っておられる

というのもまた神秘です。