ユダヤ人にとって「安息日」は死活的に重要です

マタイ福音書連続講解説教28 マタイ12章1~21節

「メシアとの論争―その①:安息日論争」

{メッセージの抜粋}

 

マタイ 12 章には3種類のイエスに対する論争・挑戦があります。

1. 安息日に関する論争        :1~21 節
2. 悪霊を追い出す権威に関する論争:22~37 節
3. メシア的しるしに関する論争    :38~50 節

安息日は、ユダヤ人・ユダヤ教を最も特徴付けている、最重要の戒律です。
私達は神により造られ、神の栄光を現すために今を生きています。
これが聖書が教える生きる目的であると言えます。

ところが、ユダヤ人には違うのです。

「ユダヤ人は安息日を守るために造られた」
という格言があるほど安息日は絶対的な位置を占めていたのです。

マカベア戦争で、安息日に進入してきたアンティオコス軍勢に応戦せず、彼らはみすみす敗北しています。
ローマ・ポンペイウスにも、安息日だからと言って反撃せず、エルサレム入城を許してしまっています。
安息日の神聖を汚すよりも、命を落とした方が潔いと考えたのです。
そんなに大切な「安息日」とは、そもそも何でしょうか?


❶律法と口伝律法

出エジプト 20:8~11

ここに「どんな仕事もしてはならない」とありますが、
これだけなら、何を持って「仕事」と定義するのか定かではありません。

彼らが定義したものが口伝えで先祖代々から伝えられてきました。
これを「口伝律法」(ミシュナ)といいます。
モーセがシナイ山で神から授かった律法は、成文法として旧約聖書に収められていますが、その際、文書にならなかったものがあって、それらが口伝律法になったと彼らは考えたのです(事実ではありません)。
この論理から、律法と口伝律法とは同等の権威をもとものと考えられていました。

安息日にしてはならない口伝律法が、驚くべきことに、1500 ほどの細則があるのです!
そしてメシアが出現したら、メシアは当然ミシュナを尊重し、遵守すると信じられていました。
イエス様は口伝律法を否定されました。
当然、体制側のパリサイ派、律法学者たちから激しい反感を買うことになります。



❷パリサイ派の糾弾
麦畑にて(1~8 節)、イエス様は弟子たちが穂を摘まんで食べたと言ってパリサイ派から訴えられました。
ここで、誰でも麦畑で穂をつんで食べることは許されていたのです。


「隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣
人の麦畑でかまを使ってはならない。」 (申命記 23:25)

パリサイ人たちにすれば、安息日にこれらを行ったことが問題となったのです。

以下が彼らの告発理由です。


①手で穂を摘まんだ~ 収穫の労働を行った!
②手の中で、穂ともみ殻のふるい分けをした ~脱穀の労働を行った!
③そのもみ殻を息で吹き飛ばした ~食事の準備(ふるいわけ) の労働を行った!
④実を食べた(胃の中に納めた) ~貯蔵の労働を行った!


❸主イエスの回答


①歴史的事例
かつてダビデとその部下たちは律法を破った。

祭司しか食べてはならないはずの捧げられたパンを空腹だからと言って食べたのが律法違反である。

それでも神は咎めておられない。

生命の維持は律法に優先されるものだから。

ここに「ダビデの子」=メシアとしてのイエスとその弟子たちが同様のことをして、何の問題があろうか。

②神学的事例(礼拝は律法に優先されるもの)
祭司たちは礼拝を維持するため、

安息日でも神殿で多くの仕事をしている。
つまり、礼拝と安息日遵守とをユダヤ教で比較するとどちらが優先されるのだろうか?
答えは礼拝であると明白。
メシアはその礼拝対象のお方であられる。
メシアは神殿自体よりも偉大な方である 。


③聖書的事例
「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」(ホセア 6:6 )
外面的な儀式の遵守よりも、

神が内面的な愛、哀れみを重視されることを
聖書から学んでいないのか?との問い。
弟子たちが生命維持する上で必要だった「食べる」行為を糾弾して、

不必要な禁止事項を設ける姿勢は聖書が明白に咎めているではないか。

これらの主イエスの反論に彼らは完敗します。
答えることすらできません。

そこで「だめなものはだめ」

「ならぬものはならぬものです」
となり、論理なしで主を拒絶していきます。
これが次回のベルゼブル論争へと繋がります。