練とは、弟子と師との隔てを埋めることかも

「5千人の給食

マタイ14章13~ 21節
~マタイ福音書連続講解説教37

 {メッセージの抜粋}



主はヨハネの殉教を知られ、ご自身の最期が近いこと認識されました。
そこであと残されている1年間の地上生涯を弟子訓練に集中されるようになります。

人々との応対に追われたいた都会のカペナウムを離れて、「寂しいところ」(13)へ行かれたのには、そのような文脈がありました。

ガリラヤ湖対岸へイエスと12弟子が舟で渡られるのですが、その上陸場所が伝承から特定されていて、現在では教会堂が建てられています。

その床にパンと魚のあるモザイク画があることで有名で、聖地旅行では逃せられない訪問地の一つとなっています。

カペナウムから徒歩で30ー40分程の距離ですから、聖書記述通りに、沖に出た舟を肉眼で確認しながら湖岸を歩いてそこまで先行することも可能でした。

舟から上がられた主がご覧になられた群衆とは、「羊飼いのいない羊」(マルコ6:34)の姿でした。

真の指導者に恵まれなかった当世の人々は、聖書の預言を正しく教えられずにメシアを拒絶して、やがてローマ戦争により世界離散への運命を辿るのです。

主は、内臓が突き動かされるような深いあわれみ(スプランクニゾマイ)をお感じになられ、人々を教えられ、また病を癒されます。

時に夕闇が迫り、群衆を解散させねばなりません。

ここから本格的な弟子訓練の始まりです。

「あなた方であの人たちに何か食べるものを上げなさい」と弟子たちに言われます。

自分たちに差し出す何があるか弟子たちの間で相談が始まり、
さらに人々からも提供を求めました。

すると、一人の男の子が自身の弁当を差し出したのです。

それは貧しい庶民の典型的携帯食で、大麦の乾パン5つと、2匹の干し魚でした。

「それをここに持ってきなさい」と言われた主は、
そのパンを取り上げて感謝を捧げると、それを割いて弟子たちに渡しました。

弟子たちはあらかじめ組ごとに別れている群衆に配ると、
男だけで5千人もいた大群落が満腹したというのです。

ここで、どうしてその男の子の弁当が差し出されたのか考えて見ましょう。


先述の距離を歩けることからして、男の子は10歳前後以上の年齢であったと思われます。

弁当持参していたのは他にもたくさんいたはず。彼らが差し出せなかった理由に、
弟子たちと同様の理性が働いていたと考えられます。
つまり、「これが一体、何の役に立てるのか」というもの。

一万人以上の空腹という需要の前に、
一人分の弁当は大洋の一雫、焼け石に水でしかない。

その理性や計算はこの男の子にも出来たはずです。

それにも勝る何かをこの子は持っていた。
それがこの子をして自らの弁当を差し出すこととなったです。

では、その「何か」とはなんでしょうか。


主イエスのあわれみ深い働きぶり、そのお話や癒しの奇跡を目撃して、
この子には感じるところがあったと考えられます。

主が食物を探しておられる。

この子にとって、それだけの理由で充分であったのです。

無駄となるかどうかは自分の知ったことではない。

主イエスの求めに応じたかった。
自分の弁当が役に立つと主がお考えなら、
それを主のもとに持って行き、捧げたかったのです。

主はそれを喜んで受け入れられ、祝福して、何倍にもして用いられました。

私たちの手にしている資源も限りあるものです。

自分の経済力、賜物、時間、、、どれも大きな世界の需要の前にあまりに無力に見えるものです。

主のお声を聞く時に、私たちはその小さなものを主のもとに持って行きたいのです。