キリスト教の本質とは?~ユダヤ教と対比させて

マタイ15章1~20節
~マタイ福音書連続講解説教38

メッセージノートと聖書本文ははこちらから:

http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/51-2038

 

 

 {メッセージの抜粋}

 
マタイ13章で、「奥義の御国」(教界)時代が始まり、
その特長がたとえ話から解説されました。

マタイ14章から、弟子訓練が始まりました。

マタイ15章では新しいその御国時代が、
パリサイ的なユダヤ教と比べて、
また異邦人と比べるとどのようなものであるかが、
突発的な出来事を通じて明らかとされて行きます。

つまりキリスト教とは何であるかが、
これらの範疇にいる人々と主との会合を通じて明らかとなるのです。

15章の便覧
*1~20節:パリサイ的ユダヤ教との対比

*21~28節:異邦人との対比(ユダヤ人の優先性)

*29~39節:異邦人との対比(ユダヤ人と異邦人の一体性)

今回はパリサイ人との論争を通じて、
ユダヤ教と対比したキリスト教の本質を学びます。


❶義は自力で獲得するものではない。

パリサイ的なユダヤ教は、
清めの儀式や安息日厳守にこだわりました。

これらを守ることは、人の目に明らかとなります。

その標準に生きる人たちにとって他人の評価を得やすいので、

つい法規遵守に夢中となりやすいのです。
それに惑わされやすいのが人間の姿でもあります。

ユダヤ教ばかりでなく、
世界にある全ての人が創作した宗教は遵守すべき掟があります。

お勤め、托鉢、座禅、修行、断食、荒業、、、

これら難題をクリアする事が、万人とは異なる優越感を抱かせ、
神仏からの悟りやお墨付きの「義」を得る道として、実にわかりやすいのです。

主は、
パリサイ人の作り上げた数万からなる詳細な義に至る道である口伝律法をことごとく無視されました。

その厳格な遵守の先に義はなく、
救いはないことを教えられました。

「まことに、あなたがたに告げます。
もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、
あなたがたは決して天の御国に、入れません。」 (マタイ 5:20)

ここで言われた「まさる」とは、遵守の程度ではなく、
次元の違いを指摘されたのです。


❷義は神から与えられるものである。

「父なる神様がお植えにならなかった木」、
すなわち人為的な宗教戒律に生きる自認エリートは他者を見下しながら、
自分の義に満足する人たちです。

そこに謙遜さはなく、救いへの求道心もありません。

ところが、
主が「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」 (マタイ5:3 )と言われた心貧しい人とは、
自らのうちには誇りとするもの、
自己義の根拠となるものがかけらもないことを知っています。

この人たちは、ひたすら神のあわれみ、恵みにすがる他ないのです。

自分には神の前に立てる誇りとするものが何も無いので、
主イエスの義にすがったのです。

その時に、イエスの義が転嫁されるのです。

イエスをメシアとして信じる信仰により、
心に聖霊が与えられて、
心清められるのです。

そして新しい霊が内側に働き、そ
の内発性の動機が神の御心に沿う正しい行いへと私たちを向かわせるのです。


「 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰(イエスの真実)によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行いによってではなく、
キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、
ひとりもいないからです。」 (ガラテヤ 2:16 )