世間の実際問題は簡単なものでない

「山麓での戦い」

マタイ17章9~18

~マタイ福音書連続講解説教45

聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/791845

 

 {メッセージの抜粋}

ヘルモン山の頂で栄光ある主の輝き、
モーセとエリヤの顕現の特別の祝福に預かった弟子たちは、
今やその山を下る時が来ました。

山頂から山麓への下山は、
シャカイナ・グローリー(神の栄光)の臨在から、
罪と悪霊に関わる暗闇の世界への移動を象徴とするものです。

• それはすでに天の御座を捨てて、
地上に下られた主イエスの謙遜さに模範が見らます。

• 教会内にある恵みの世界から、
ミッション(伝道)の場へと派遣される私たちにとっても身近なトピックスです。

私達もまた栄光ある場所から、
問題の渦巻いている現実世界へと遣わされているからです。


Ⅰ 下山途上にて(9~13節)

弟子たちは、「律法学者たちはエリヤが先ず来ると言っているが…」
と主に訪ねます。

そのような疑問が彼らの内に沸き起こるのも、
旧約聖書時代からの伝統と信仰とのゆえです。

マラキ4:5~6の預言のよれば、
メシア到来前にエリヤがやって来て、
人々の心を整えることになっている。

そのエリヤを山上で目撃した彼らは、
「今や、メシア王国の樹立だ」と考えた。

そのエリヤが見えなくなってしまった今、
イエスのメシア性と預言成就の関連性に疑問が生じたというのです。

それに対して主は、
エリヤはすでにB.ヨハネがそのタイプとして来たのである、
とお答えになられます。

そのタイプとしての預言は、マラキ3:1にあります。

なお、本物のエリヤは今後、主の再臨前に地上にやって来られます。

それは黙示録11:3に預言されている
「二人の証人」のうちの一人であると考えられています。

彼らは大艱難時代のエルサレムで、
3年と半年間伝道したあとに殉教死を遂げますが、
復活して天へと挙げられて行きます。

その奇蹟は、多くのユダヤ人を信仰へと目覚めさせるしるしとなります。

さて、山麓(世の戦い)に臨む私達が身に付けなくてはならない準備が、

この下山途中の会話から読み取れます。

それは、
• 主の言葉を聴いて、聖書理解に進むことが準備となり
• それは、神の人類救済計画の全体の流れを把握することに他ならず
• 神のことば・約束が今度も違わずに成就して行くことの確認です


Ⅱ 山麓にて(14~18節)

麓で彼らを待っていた戦いとは、
一人息子(ルカ9:38)が幼い時から(マルコ9:21)
悪霊に取りつかれているのでどうかしてほしいという、父親の問題でした。

律法学者たち(マルコ9:14)が激しく弟子たちと議論をしていました。
弟子たちには悪霊追放ができなかったからです。

それはかつて彼らに与えられていた権威(10:8)なので、
試みたはずなのですが、、、

弟子たちの失態は、
律法学者たちの格好の攻撃材料、
物笑いの種となっていました。

主は、
真っ先に愛弟子たちをかばう代わりに、
深く嘆息されて嘆かれました。

「不信仰な、曲がった今の世だ。…
いつまであなたがたに我慢していなくてはならないのでしょう」

それでは、ここでの「あなたがた」とは誰で、
主は誰を嘆いておられたのでしょうか。

結論を言えば、その場に居合わせた者たち全員です。 

• 父親のことである:
子供の幼少時から悪霊の干渉を受けるほどに、
信仰から離れた家庭生活を築いていた責任がある

• 9人の弟子たちのことである:
かつてガリラヤ伝道では悪霊追放ができたのに、今回は不能となっている。
ピリポ・カイザリヤ以後、信仰の歩みからそれてしまった。
主の受難告知が彼らにとって心外であったから。

• 律法学者たちである:
偏見から、どれほどメシア奇蹟を目撃しても、メシア拒否をすでに決定していた。

山麓とは、
常に神の国の反対者(パリサイ人)、
無関心者(父親)、
無理解者(弟子たち)
であふれている世界である。

その現実の中で、私達はどんな問題も主の下に持っていくことができる。

「その子をわたしのところに連れてきなさい」