約聖書は旧約の聖句を正確に引用していないのではないか?

マタイ福音書連続講解説教⑥  マタイ2章13~23節

「メシアのエジプト逃避」

 {メッセージからの抜粋}

 

 新約聖書(NT)が旧約聖書(OT)を引用するとき、今日の私たちの原則は適用されない。

1世紀のユダヤ教ラビ(教師)が、どのような原則を用いていたのかを確かめなくては大きな混乱を引き起こすことになる。

聖書を読み始めたとき誰でもNTがそのまま正確にOTの聖句を引用していないことに疑問を持つだろう。

ラビたちのOT引用法は4つのカテゴリーに納めることができる。

その4つのすべてがマタイ2章に出てくる。この4つ以外の引用法は聖書にはない。

1)      書かれてある通りの成就タイプ 2章5~6節

2)      タイプとしての成就      2章15節

3)      適用されての成就       2章17~18節

4)      まとめとしての成就      2章23節

 

 詳細はメッセージノートに譲るとして、ここではカテゴリー3を取り上げてみよう。

「適用タイプ」の引用法

エレミヤ31:15からの引用であるが、これはエレミヤの時代に近く実現されるバビロン捕囚を預言した箇所である。捕囚に引かれてゆく際に男子はラマ(エルサレム北方にある町)に集合させられ、母親たちとの涙の別れをするというもの。ラケルはイスラエルの母の代表している。かつてベンジャミンを出産する際にその近くで死んだのがラケルだ。

ここでマタイは、字義とおりでもなく、フルスケイルのタイプとしてではなく、たった一つの類似点を取り上げて、その部分をのみ適用した。その1点とは、母親たちが失った子供たちのために泣いている、という点。「ラケルが泣いている」とはそれを描写したものなのだ。これがエレミヤの時代にもメシアの時代にも共通している点であるが、それ以外の点はどこにも類似点が見出せない。母親とその子が引き離されるのは捕囚と殺害、その場所がラマとベツレヘム、「子」とは成年男子と2歳以下の子供、、、どこにもだ。

 もうひとつの例として、ペンテコステの日にペテロが成就したとして引用しているヨエル書の預言がある。これは有名な箇所なので、ペンテコステの日に多くの教会でその聖句を基に説教がされてきた。

だかこれまでの私の数十年間の教会生活で、一度も正しい引用法に基づいた説教に出会ったことはない。理由は簡単である。私自身が数十年間、これを知らずに破れかぶれの説教をしてきたからだ。

 ヨエル2:28~32 と使徒2:16~21を比べてみよう。

「これは預言者ヨエルによって語られたことです」(使徒2:16)とペテロが言っている「これ」とは、たった一つの点である。

それは、すべての人に聖霊が注がれたことでもなく(注がれたのは当時120人に過ぎない)、息子や娘、僕やはしためが預言することでもなく(誰も預言していない)、青年や老人が夢や幻を見ることでもない(その日、誰も夢や幻を見たものはいない)。さらに太陽は闇となっていないし、月も血に変わったとは記録にない。

 「この日を境にして聖霊時代に突入したのだから、皆さん、夢や幻を抱いて、大胆に預言するものとされましょう!」~このような重圧感ある牽引型説教に何度か出会ったことがある。

 ここでヨエル書預言から使徒2章へ適用されているただひとつの点とは、「聖霊の大傾注が信じるものの群れに与えられた」ことである。使徒2章のペンテコステのときに嵐や響きが起こり、炎のような舌が各自の頭にとどまったとあるが、それらはヨエル書預言にはない。聖霊に満たされた弟子たちは、他国の言葉を自由に操るようになったとあるが、それもオリジナルのヨエル書にはないのだ。たった一つの点を除いてペンテコステの日に成就したものはないのだ。

すると、このヨエル預言を聖霊時代となっているからといって今日の私たちにすべて当てはめるのも無理があるし、聖書的ではない。OT引用法をわきまえていないことから来る脱線といえよう。

 ヨエル書の預言がすべて成就するのは、「終わりの日」であり、「主の大いなる輝かしい日が来る前」(使徒2:20)のことである。それは主イエスの再臨の直前に全世界に襲い掛かる大患難時代のことである。そのときにすべてのイスラエル人の上に聖霊の大傾注が起こり、先の数々の預言がユダヤ人の息子にも娘の上にも、天にも地にも実現されることになる。そして、彼らは全世界に主の救いを伝える宣教に励むようになるのだ。