マタイ福音書20章

「ぶどう園のたとえ話」

マタイ201 16

~マタイ福音書連続講解説教53

 

聖書本文とメッセージノートはこちらから:

http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/011653

 

 20章の分解を「天の御国」をキーワードに整理すると次のように分解できる。

  • 1~16:ぶどう園のたとえ話     ~天の御国の賃金形態

  • 17~19:主イエスの受難予告   ~天の御国のプログラム

  • 20~28:ゼベダイの母の懇願   ~天の御国の地位

  • 29~34:二人の盲人のいやし   ~天の御国の恵み

今回は有名なぶどう園で働く労務者たちのたとえ話であるが、

ここのメッセージを汲み出すために、意外な話の展開点に着目する。

 

1  5時に雇われた者の喜び

 

能力別に雇用される5つの階層があった。

 

明け方6時、9時、12時、3時、そして夕刻の5時に主人から声をかけられて

ぶどう園へ派遣されて働く日雇い労務者の話である。

夕方5時まで仕事せずに市場をウロウロしているのは、

「誰も雇ってくれないから」(7節)という理由であった。

 

働きたくともあぶれてしまった者たちの悲しさ、悔しさはいかばかりであろうか。

 

現在も就活に苦労している若者たちが世界中に溢れている。

 

日没までわずか1時間しかないのに声をかけてくれたものがあった。

5時からの労務者を雇うなんて、今でも当時でも有り得なかった話の展開である。

 

「あたながたも、ぶどう園に行きなさい」~意外性①

 

彼はその1時間を賃金のために働かなかったはずである。

声をかけてくれた主人への感謝の気持溢れる労働となったはずであった。

 

ここに、自分の行い・実績や能力に頼る者(朝早くから雇われた者)と

主のあわれみだけに頼る者との違いが見られる。

 

 

2  早くから働いた者の不満

 

「一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです」(12節)

 

行列の先頭で1時間しか働かなかったものが1デナリを得ているのを見て、

朝6時から10時間以上も働いた者はもっと多くの報酬があると期待するが、

報酬をもらう番になったとき得たのは同じ1デナリであった。

 

彼は不満いっぱいで主人に詰め寄って言ったのが冒頭の言葉である。

 

当時のぶどう棚は足元に広がっていた。

それで文字通り「焼けるような暑さ」の日射を全身に受けて重労働を耐えたのだ。

 

5時に雇われた者と比較したら、彼らは汗さえ流していない。

 

なぜ同じ報酬なのだ!~意外性②

 

しかしこの点にこそ、

「天の御国」がこの世にある原理とは異なるもので回転していると教えるたとえ話のポイントがある。

 

「より大きな犠牲を払ったものが、より大きな報酬を得るのがフェアであり、

現実の労働世界は、実力・実績主義であるか、年功序列主義である」というのが、

この世の世界の価値観。

 

人間理性に実に納得しやすい。それは地に属する原理だからである。

 

ところが、天に属している原理はそうではない。

 

だから分かり難い。

それゆえ、聖書から啓示されている真理を学ぼうとしない限り発見できない原理なのだ。

この世のどこにもないのだから。

 

 

3  気前の良い主人の言葉

 

「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。

 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。

それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」

 (マタイ 20:14-15)~意外性③

 

「気前がいい」=「アガソス」(19:17)~19章にある青年との会話から、

永遠のいのちの報酬に関する教えの延長線上にこのたとえ話があるのが分かる。

 

このアガソスとは、神にのみ用いられる「尊い」、「美しい」という意味の語句(19:17)である。

 

神の究極的な気前の良さは、我等の救いために最も大切なひとり子を与えられたことの中にある。

 

この言葉は、天の御国での報酬の原理原則を教えるものとなった。

気前良く報酬を5時からのものに与えられた。

朝から働いたものにも不正はされていない。約束通りのものを与えたのである。

 

もしあなたが天国での報酬目当てに奉仕をしているとしたなら、

そして人の評価も得られる「先の者」であり、朝早くから働いている能力も実績もある人なら、

おめでとうございます。

 

あなたはいままでのあなたの賜物と時間とを神の国のために投資して来ました。

そしてその間、主とともに有意義な時を過ごして来たのです。

やがての時、その投資に見合うリターンを主から受け取ることが出来ます。

 

もしあなたが箸にも棒にも引っかからなかった「後の者」であり、

夕方5時になるまで仕事にあぶれていて最後の段階になって主から声をかけられたのなら、

あなたの視線は報酬ではなく、主人にあるはずです。

そして感恩の情に溢れて奉仕をしていることでしょう。

 

おめでとうございます。

あなたはご自身の無用さを充分に認識しながら、奉仕も人生もただ主の恵みゆえであるのを知っています。

やがての時、与えられる報酬の大きさに驚かれることでしょう。

 

私たちの主は、私たちの想像を超えて遥かに気前のよい方でございます。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、

どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

(ローマ8:32)