祈りとは聞かれるものなのか?

ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です
聖書本文とメッセージノートはこちらから:

http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/1217-60

「証明されるメシア性」
マタイ21章18~ 27節
~マタイ福音書連続講解説教60~



信仰の本質とは何であろうか?

信仰に入るとは、信仰を持つとはどういうことであろうか?

信者となった者がさらに信仰を成長させたり、
この箇所にあるような「山をも動かすほど」の完全な信仰とはどういうもので、
どうしたらそこに至るのであろうか?

ここのマタイ21:21-22の聖句もまた多くの場合、誤解されて解釈されて来た。


 『 イエスは答えて言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。
もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、
いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、
たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、
そのとおりになります。

あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。』


この聖句だけを豆カードに抜き出して、
5回でも唱えてみたらどうなるか。

本来の聖書が教えんとされるとことから大きくはみ出して
偽りの教理が完成する可能性が高い。

それは貴方の人生経験が培って来た文脈で読み解こうとしているからだ。

聖書は文脈で読まねばならない理由がここにある。

その聖句だけを取り上げて判断するのでなく、
その主の言葉に至った経緯を考慮しなくては正しい解釈ができないのである。


 1.それは自力本願ではない

熱心さ、気合、あるいは傾倒や犠牲で「信じ込む」こととは違う。

東洋の宗教に頻繁に見られるような悟りや修行。
それに慣れている我々の思考パターンから
この聖句を紐解こうとする時に陥りやすい錯覚である。

精神統一を遂げてある種のイデオロギーだけに傾倒し、
それ以外の思考や可能性を拒否せよと教えている聖句ではないのだ。

「疑うことがなければ」とは、聖書に疑問を抱くことを禁止するものではない。

我々の知性をフル回転させて理性をもって神の言葉に取り組み、
その統一性や無謬性に畏怖の念を禁じ得ないことがこれまでに何度もあった。

「信じて祈り求めるなら、何でも与えられる」
これも、打ち出の小槌を保障しているものではない。


 2.文脈から聖書を読み解く

この聖句はいちじくの木が枯れたという視聴覚教育の一環の中で
主が話をされている箇所である。

枯れたいちじくの木が象徴しているのは、イスラエルの崩壊と滅亡である。

当時のイスラエルは大した国であった。

荘厳華麗な神殿を誇り、
世界中からユダヤ人を回帰させる過越祭という盛大な式典、
それにローマ法よりも厳格・細微に人々の生活を束縛している
口伝律法とパリサイ主義〜世界一の宗教民族であったのだ。

そのユダヤ人とその首都機能が壊滅するとは
当時の人々に到底考えられないことである。

世界帝国樹立目前との人々の期待値が高まる中で
その王たるべきメシアが十字架での死を遂げるとは、
彼らの理解や想像をはるかに超越するものであった。

「山」とは、ここでは理解困難な聖書箇所であったり神のお心のことである。

「山が動いて海に入る」とは、
それが理解され解決されることを示しているユダヤ的な格言である。

人間歴史には、神の力と意思とが働いている。

当時の弟子たちが主の預言も十字架も到底理解できなかったように、
私たちもまたそれを認知出来ないでいる。

世界を動かしているのは経済力や軍事力であると多くの人たちは見聞している。

やがて主の再臨があって、
千年間の神の国がイエスによって樹立されるとの神の歴史プログラム
をどれほどの人が信じているのだろう。

もしそれを信じることが出来るとしたら、山を動かすほどの快挙となる。


 3.信仰の本質について

「信仰を持ち、疑うことがない」とは、
自らの願望を主張・反映させることではない。

自分の願望の強さや犠牲の大きさが祈願を成就させるとは
異教の教えであってキリスト教ではない。

バアル預言者達の自傷行為や日本に見られた御百度参りを見よ。

それらの成就如何は、祈願者の行為次第によると教えるものである。

では、何であろうか?

それは神の約束と世界への経綸が100%完全に成就するとの確信である。

そのために必要なことは、
冷静な思考力を働かせながらこれまでのアブラハム以来4千年間、
どれほど確実に聖書預言が一字一句成就して来たかを知り、理解し、納得することである。

つまり聖書に対する知識と理解の深まりが必要なのであり、
至って自然科学的なアプローチなのである。

その時、聖書預言成就の芸術的とも言える正確性は、
今後の世界の行く末に関する主の預言も
確実であるのを認めないわけにはいかないのである。

私たちに主の言葉への絶対的な信頼を惹起させるのである。

それはまた、神の御心に肉薄することに他ならない。

「祈り求めるもの」が神の御心に添ったものであるとき、
貴方のその祈りは成就するほかないことになる。