マタイ福音書23章

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「子羊の反撃①~弟子と群衆への教え」
マタイ23章1~12節
~マタイ福音書連続講解説教67~


マタイ21~22章はユダヤ各派が子羊を吟味している場面であり、
4つのユダヤ人派閥からの尋問・論争を受けてきました。

彼らは主イエスに論駁された結果、
もはや質問の勇気すらなくなったようです。

「 それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。
また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった。」
(マタイ 22:46)

パリサイ人は、常に論争相手として主の前に立ちはだかりました。

彼らの説く口伝律法の教えは、
ユダヤの民衆に会堂を通じて深く入り込んでいたイデオロギー
とも言うことができます。

彼らはなぜ事あるごとに主と対立せねばならなかったのでしょうか。

両者ともに旧約聖書の権威を認めているのに。

それゆえ外部からは「ユダヤ教」と括られて、
その違いは見えにくいのです。

彼らのパリサイ主義と
真の聖書的な信仰(主イエスの教え)とは、
何がどう違うのでしょうか。


  1. 自力本願か他力本願か

律法遵守に厳格になるほど救いから遠ざかることになります。

自らに厳格になればなるほど
欠陥や欠点だらけの自分自身に敏感ともなるからです。

律法を守ることによる、
つまり自己努力によっては完全(義)へ至らなかったとパウロが告白しています。

「 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、
私たちもキリスト・イエスを信じたのです。

これは、律法の行いによってではなく、
キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、
ひとりもいないからです。」
(ガラテヤ 2:16)

クリスチャンとは、自己に破産した者たちのことです。

義なるものなんて自らの内にはないことをつぶさに知り、
罪の塊でしかなかったと悟ったものが、

その罪をかぶって十字架に死に、
よみがえったお方にのみ
望みを託した者のことです。

イエスという一人だけの絶対他者にすがるほか
救いはないことを経験した者たちのことです。

  2. 他者(自己)を意識するか、神のみを見上げるか

パリサイ人たちの世界には常に序列があり、
より高い位に上ることが人生の全てであったようです。

そこは他者との比較の世界となりました。

他者が自分よりも宗教的に優れていると判断されるなら劣等感、
その逆なら優越感を抱くかのどちらかでした。

他者をそのように意識することは、
すなわち自己を必要以上に意識すること、
自意識過剰に陥ります。

それゆえパリサイ人らは祈るときは人目のある大通りに出て行きました。

献金のときは多額のコインをささげるのが衆目にわかるように音を立てて
(ラッパを鳴らして)献金箱に投げ入れました。

人からの評価が全てである彼らは

「先生」
「わが父」
「師匠」

などというタイトルで呼ばれることを求めていたのです。

かつて神はアブラハムに
「わたしの前を歩んで、全き者であれ」
(創世記17章1節)
と言われました。

真の信仰は、
あなたを命を捨ててまで愛したお方を
罪とその結果からあなたを救い出す神のみを見上げて歩むことです。

誰の評価よりも、
「隠れたところで見ておられるあなた方の父」(マタイ6:4、6、18)
からの評価と報いとを期待するものです。

  3.不安と恐れからの宗教実践か、満ち足りている所からの感謝行為か

パリサイ人らの律法主義には常に恐れが伴っています。

厳しい神の掟にどこまで届いているのだろうかという不安感。

他者は私をどう見ているのだろうかという猜疑心。

これは強迫観念の信仰と言えます。

奉仕するのも、献金も集会主席もそうしないと怖いと感じるのです。

神の裁きや評価にもれてはしないかと、
恐れるところからの宗教の行いと成り下がります。

ところが一方で
主イエスの無代価の救いをいただいた者には喜びがあります。

彼らは信仰による有難い思いを抱いています。

そこから自主的な奉仕やささげ物という実践が伴うのです。

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。
私たちは何一つこの世に持って来なかったし、
また何一つ持って出ることもできません。」
(Ⅰテモテ6:6-7)