時代が煮詰まると人は二つに分かれて行く

ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージノートは次のリンクから:

http://hosannamin.org/whatsnew/view/611695

「ベタニア村での憩」
マタイ25章1~16節
~マタイ福音書連続講解説教95~

 

現在の西側民主主義国家では、
様々なことなる価値観や宗教が共存する多元化された社会です。

平和で自由が享受できる社会では、
信教や思想、表現の自由が尊重されてしかるべきです。

ところが時代が沸騰してきたとき、
そのような多元社会は他者を強要する余裕を失い、

YESかNOを迫る2分化された社会へと変貌せざるを得なくなります。

明治維新の時、開国か攘夷かで国論が二分されました。

太平洋戦争時には、戦争協力するか非国民となるか
二つに一つの道しか選択の余地がなかったのです。

世界の終末時代は究極の沸騰時期です。

このとき、世界が統一されその王であり神格化された反キリストに付き従うか、
キリストに従うかの二つの生き方しか人には与えられないと聖書は預言します。

転機的な「神の時」を迎えたとき、
人類は二分されていくことをマタイ25章から見てきました。

1.携挙の時、二分される全人類~たとえ話・25:1以下から
2.再臨の時、二分される異邦人たち~たとえ話・25:31以下から

主イエスが十字架に至る過程でも
同様に人々は二分されて行きます。


① サンヘドリンとベタニア村の対比

サンヘドリン(3~5)とはユダヤ人の最高権力機関、
つまり国会のようなところでありました。

その議長であるカヤパ(大祭司)の家の中庭にて
イエス殺害の陰謀が密かに進行しています。

一方、ベタニア村のとある家ではイエスを歓待するパーティが開かれ、
質素ながらも愛と平和に満ちたものでした。

ベタニア村はオリーブ山東麓の田舎にあり、
そこにはイエスを愛する3兄弟姉妹がいたのです。

マリヤとマルタ、
それにかつて蘇させられた(ヨハネ11章)兄弟のラザロでした。

彼らは主イエスとの最後の時を
寸秒も無駄にすることの出来ない緊張の中で

心行くばかりにフェローシップ(交友)を楽しんだのでした。
策謀渦巻くサンヘドリンとは真逆に位置していました。


②マリヤと12弟子との比較

マリヤ(ヨハネ12:3)は
結婚式の初夜に使うという高価なナルド油をイエスにそそぎかけます。

誰もがその行為の真意を理解できない中にあって、
「わたしの葬りの日のためにそうしたのです」(ヨハネ12:7)

と主は言われ、彼女の心中にあった動機をご存じであったことを告げられます。
マリヤはイエスの使命が贖いの死にあることを理解していました

それは他の12弟子らの理解できなかった領域です。

彼女は、
献身的な傾聴の姿勢から(ルカ10:39,42)洞察力を得ていました。

3年間ほど主との共同生活による実地訓練を受けてきたにも拘らず、
12弟子には主の死というゴールが受け入れがたいものでした。

これは4回目となる受難の告知の直後の出来事です。

受難のメッセージを彼らが理解できなかったのは、
自己願望や自己計画、いわゆる自我が心中に風船のように膨れ上がっていて、

神の声を聞こえなくさせているからです。
貴方は、イライラと憤慨することがありますか?

その時、あなたの心には神のことを考えるスペースはなく、
自分の都合や願いでいっぱいとなっていて、

それが満たされないので怒りがあふれ出すのではないでしょうか。


Ⅲ イスカリオテのユダとイエスの比較 

イスカリオテのユダは、弟子集団の会計係りであったことから
信頼も厚く、かつ計算能力のある人物であったと推定できます。

彼が最も激しく、マリヤの愛の行為を咎めています(ヨハネ12:4~6)。

過越祭はチャリティー期間でもあるので、もっともらしい理由を並べたが、
真の彼の狙いは会計の不正利用にありました。

彼の自我(願望やら計画)がとん挫した時、
険しさと怒りとにあふれてマリヤを非難しています。

主イエスが彼女を擁護したこの出来事を境にして
ユダは裏切りを決意するに至っています。

主イエスのたどる使命を知ったゆえに
~死なれるなら、自分は王国設立時の重要ポストを得られない。

主イエスの価値観を知った
~主は金銭ではなく、純心の愛をより偉大なものとし見積もっておられる。

一方、イエスの使命と献身(2)を考えてみましょう

①誕生時から背負っていた父なる神からの使命があった
~それが贖罪の死

②使命が成就されるためには二つの条件があった
「二日たつと」:OTから過越しの祭りのゴールとして死ななくてはならない。
「十字架」 :神に呪われたものとして「木にかけられなくては」ならなかった。

主イエスにとり自己の願望や計画に走るよりも、
使命に従順であることが最大の関心事でした。

そのためには、神ご自身の特権から離れることから始まり、
地上に下り、死後の世界にまで降ることを選ばれたのでした。

イスカリオテのユダと主イエスの位置関係も対極にあることが変わります。
その生涯の総決算も、対極にあるものとなりました。

ユダは自殺して、その腸が全て飛び出るというう悲惨なものとなりました。
主イエスは復活して、ご自身が神の子であることを証明されました。

さて、貴方の立ち位置はどこにあるでしょうか。
中間はあり得ま せん。

「己」を優先させるか、
主イエスに従う道を選ぶか、

二つに一つの道しか人には与えられていないのです。