ゲッセマネの祈り

メッセージノートはこちらから:

http://hosannamin.org/whatsnew/view/6143097


「ゲッセマネの祈り」
マタイ26章36~46節
~マタイ福音書連続講解説教97~

ゲッセマネとは「油絞り」の意味をもつ、
ケデロンの谷、オリーブ山の西側の麓にある場所です。

そこにオリーブの木が群生し、
オリーブ油を圧搾機で抽出するところからその名がつけられました。

イエスが通常、弟子らと祈りをともにしていた場所でしたが、
その日、史上最大の決戦の場となりました。

と言うのは、翌朝の十字架を回避させようとする
全ての悪の勢力との熾烈な戦いの場となったからです。

もしその戦いに主が負けていたとしたなら、
今日のキリスト教会は一つとして誕生せず、私たちの救いもありませんでした。

しかし主は、脂汗どころか、血の汗を滴らせるほどの精神的圧迫・葛藤を経験し、
その戦いに勝利されたのです。

「汗が血のしずくのように地に落ちた」(ルカ22:44)

主がここで祈られた姿勢から、祈りの本質について学んでみたいと思います。


「祈りの本質について」

⑴神とのコミュニケーション

8人の弟子たちには
「ここにすわっていなさい」(36)と園の入り口で言い渡され、

内弟子であるぺテロ、ヨハネ、ヤコブには
ご自分の苦悩が見える至近距離にまで伴われています(37)。

ご自身はさらに進んで、一人になられて
「ひれ伏して」(39)祈られました。

ここに神とのコミュニケーション・レベルの段階が見て取れます。

主が最も濃厚で親密な神との交流を交わされているとき、
私たちはどこにいるのでしょうか。

そのゲッセマネの祈りがあったことすら知らない当時の群衆たち。
それは、祈りの世界に全く無頓着で門外漢の段階です。

8人の弟子たちは、
祈り自体は知っているし実践もしてきているが、まだ初期の段階です。
彼らは、そこに神との人格的で双方向の交流があることを経験していません。

3人の内弟子たちは、主が格闘しているすぐ近くにいました。
主の祈りの言葉やその苦悩まで見聞していますが、
それが意味している霊的な意味までは悟れないままです。

⑵ 神へのコミットメント

主はお一人で「この杯を取り去らしてください」と祈られました。
では、「この杯」とはいったい何でしょうか。

①肉体の死のことではありません。
主は十字架上での死を以前から覚悟されています。

②霊的な死のことです。
未体験の底知れない恐怖と暗黒に襲われました。

永遠の昔から瞬時たりとも絶やされなかった父なる神との親密な交流関係が
断絶され、敵とみなされ、呪いの的とされるという

十字架の霊的な意味がこのときに至って新しく啓示された故と言えるでしょう。
「悲しみのあまり死ぬほどです」とその苦悩のほどを吐露されました。

人間イエスは「杯を取り去ってください」とご自分の本音の願いをささげましたが、
同時に「わたしの願いではなく、あなたのみこころの通りにしてください」
と父なる神にコミットメント(委譲・献身)をしておられます。

私たちも同様にどんな自己的と思える願いでも本音で神様に迫って良いのです。
その中で、神のみこころに従う献身に導かれていきます。

⑶ 神へのコレスポンデンス(調和)

「キリストは、人としてこの世におられたとき、
自分を死から救うことの出来る方に向かって、
大きな叫びと声と涙とをもって祈りと願いをささげ、
そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(へブル5:7)

主のゲッセマネの祈りは聞き届けられたと、
ここのへブル書の聖句は教えています。

人間イエスの願いはかなわなかったが祈りはかなえられ、
杯を受け取るだけの力と確信とを得たのです。

十字架の霊的な暗黒に立ち向かう決意が確立されたのでした。

主の孤独の戦いに期待した弟子たちは皆、眠りこけてしまっていました。
「心は燃えていても、肉体は弱いのです」(41)

そんな中で父なる神は、天使を送り助けておられます。(ルカ22:43)

危機的な状況においてなおも神との調和(correspondence)を保てるのは
平常での祈りの歩みがあるからです。

かつてハガルは、
家を追い出され孤独な逃避行を続けているときに新しい神観に到達しています。

 

「彼女はご自分に語りかけられた主の名を『あなたはエルロイ』と呼んだ。」

創世記16:13

それは彼女自身は気が付かなかったが、
「ご覧になる方」を発見したというものでした。

彼女が困窮の中で祈るより先に、
彼女自身とその境遇の全てをご存知であった主を知ったのでした。

私たちにおいて祈りとは、
神が私の全てをご存知の上でなおも受け入れてくださっていることを

発見し続ける営みと言えるのではないでしょうか。