宗教は人を救えるのか?

マタイ福音書連続講解説教⑦  マタイ3章1~12節

「荒野で叫ぶ者の声」

 {メッセージからの抜粋}

 

 バプテスマのヨハネは、当時の宗教の権威も教えも飛び越えた。社会が当然のリアリティとして抱いていたルールを否定した異端児だった。

1世紀のユダヤ人にとって、割礼を受けたからには天国行きは保障された。アブラハムと神との救済契約の中に組み込まれたと考えたからだ。ヨハネはそれだけでは足りず、悔い改めなければやがて「火によって焼かれる」、つまり地獄の火に焼かれることになると教えた。保守派のパリサイ人たちを「マムシの末たち」と断じた彼は、やがて迫害と死とが将来に運命付けられることになる。

割礼という宗教儀式が人を救うのではなく、信仰によって神との契約にサインしたしるしとして割礼があるという順序が、創世記に見出されるアブラハム物語であり、本来のユダヤ教であった。この本来の聖書的ユダヤ教に戻ろうという運動は、ヨハネから主イエスに受け継がれてゆく。

 1世紀ばかりでなく、宗教行事や儀式が人を救うという同様な教えは、歴史的キリスト教界の中でも繰り返されてきた。代表的なものが、洗礼が人を救うという教理であろう。今日でもカトリック教会では幼児洗礼を施している。新生児が生後なるべく早く洗礼により天国行きの切符を確保しなければ死と直面させられないとするその教えには、当人の信仰は必要とされない。

ルターが起こした運動はプロテスタント教会を生み出すことになったが、それはヨハネの運動と重なる。両者ともに聖書の本来の教えに戻ろうという運動であった。

 ある牧師は大学時代、映画製作を専攻していた。ホームレス役を演ずることになるが、監督からどうもうまく演技ができないといわれ、数日間サンフランシスコで実体験をすることになる。その数日間、彼を最も驚かせ苦しめたことは、誰一人として彼と眼を合わせてくれないことだったという。空き缶にコインを投げ入れる善良な人でさえも、彼の視線を避けるようにして足早に立ち去って行った。人として存在を認められていない、のけ者にされているような感覚が彼を奈落のそこに突き落としたのだった。

 ヨハネ福音書4章に出てくるサマリヤの女性は、パリサイ派ユダヤ教の視点からは救いから最も遠い所にいた罪人である。女性であり、サマリヤ人である上にゴシップの標的とさるわけあり女であった。その彼女にラビであるイエスが声をかけるのは当時の社会通念上、想定外である。

あのとき主イエスは、彼女の目を見ながら言われたのだ。

「私に水を飲ませてください」(ヨハネ4章7節)

主イエスは彼女の立場や過去、社会が貼り付けたレッテルではなく、彼女の目を見た。彼女自身をご覧になられたのだ。

彼女にとって恐らくはじめての、人として尊重された瞬間であった。

以後の彼女は、それまでの人生を繰り返すことはできなくなってゆく(4章9節)。

新しい門出となったのだ。

宗教は彼女を色分けして断罪した。

主イエスとの人格的で生きた関係が彼女を変えてしまったのだ。