人前でなく、「神の前」を生きることってどういうことでしょう?

マタイ福音書連続講解説教13  マタイ6章1~18節

「義に生きる(宗教面)」

 {メッセージからの抜粋}



 当時、ユダヤ人にとって守らなくてはならない大切なことがありました。


   1.    施し
   2.    祈り
   3.   断食
 
 これら3つは、ユダヤ教と深く結びついていた教えでした。
つまりどれほど熱心・忠実にこれらの善行に励むかが、彼らの社会の中での評価を決定したのです。本来の聖書的ユダヤ教もこれら善行を教えその実践を勧めていますが、預言者が途絶えてすでに4百年以上が経ち、パリサイ派という保守勢力が台頭するに及んで、それら善行は制度化され、形骸化していったのです。

 人からの賞賛や評価を得るために、どうせ同じ良いことをするなら人目につくところを選んでするようになったのです。彼らのことを主は「偽善者」(2,5,16節)と言って糾弾されました。
人から褒められた瞬間に偽善者の目的は達成され、報いをそこで受け取ったのだと教えます(2,5,16節)。この「受け取った」という原語は、「アペクーシン」というもので全額領収済みであることを示す商業用語です。領収書の体裁をとったパピルスに書かれたものが多数発見されているのです。彼らは神からの報いはないが、人から注目されて褒められたことで報いを領収したのです。

よって主は、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(6章1節)と警告されています。

 ここからまことの宗教とは、人の賞賛を得るためでなく人目につかない奥まった所で見ておられる神(4,6,18節)に対する行為を問うものであり、外見の行為それ自体よりも心中の動機が問われるものであることが分かります。

人への同情心ゆえに施しがあり、神への信仰心ゆえに祈りが生まれ、自らへの訓練のために断食があるのです。そこに他者からの評価を気にする要素が入り込めば、同情心も信仰心も自制心も必要なくなり、出世競争意識を風呂敷に包んだ宗教が出来上がってしまいます。

 さて、今日の日本を含めた西洋社会で衆目を集め、人の賞賛を得られるものとは何でしょうか。1世紀ユダヤ社会のような宗教はすでに私たちには廃れているようです。
それに代わるものとして、数万人を熱狂させるスタジアムで興行されるスポーツ、あるいはコンサート会場のタレントたちが私たちの時代の礼拝・崇拝対象になってると言えないでしょうか。
他者からの賞賛や評価を得るためにそういった現代版「宗教」に励んでいる人がいたら、なんとも空疎な生き方でしょうか。笛で踊らされている蛇のように、自らを失いながらも、その自らの価値は他者の拍手の大きさによるのです。

 昨日長男のサッカーの試合観戦をしました。
長男はチームの中で最も小さく、体重もありません。一回り大きい他の子の身体的なプレスには敵わず、よく倒されたり当たり負けしています。それでもハングリー・スピリットにおいてはチームで随一。常にボールを全力で追いかけ、チャンスと見ると果敢にチャレンジして行きます。今のところ彼がチームの得点王で8得点。2位の3得点を大きく引き離しています。その日も彼のドリブルシュートが決まり、チームは1-0で勝ちました。

 彼は飛びぬけて上手なプレーヤーではありません。特別なスキルがあるわけではありません。ただ我武者羅にボールに喰らいついているのでチャンスを物にできるのです。
彼よりもうまい選手はセレクト(選抜)チームにすでに引っ越しています。
たぶんそのセレクトのテストを受けたら彼は合格はできないでしょう。
彼は勝負にかける意気込みはありますが、その結果に浮き沈みはしていません。
また自分が得点王だ、勝利に最も貢献していると言ってうぬぼれることもありません。この点は私の子供時代と大いに違う点です。

 つまり彼は親からの期待に応えようとか、親やチームメイトからの評価や賞賛をもらうことがプレイの動機になっていないのです。カッコウをつける必要もなく、成功しておごることもなく、うまくできなくて落ち込むこともありません。
負けたときも、勝ったときも"Good Job”と言って彼を褒め、「楽しんだか?」と私たちは聞き続けて来ました。

 私は長男にサッカーを純粋な意味で楽しんでほしいし、チームとの協調行動に喜びや生きがいを見出してほしいと考えています。
人が認めてくれるからゴールを量産するのでなく、走るのが、ボールを追いかけるのが楽しいからサッカーをしている、そういう子であってほしいです。仲間と力を合わせて一つの目標に向かう醍醐味を積み重ねていってほしいです。