福音を聞いただけの人とはどういう人でしょう

マタイ福音書連続講解説教16 

713 29 「山上の垂訓の結論」

 {メッセージからの抜粋}

 

 今日のところは5~7章までの山上の垂訓の結論部分となります。

ここで主は「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。 と言われました。

聞いたことを実行するようにとの勧めであり、結論部分に相応しいと言えます。

新約聖書27巻の中でヤコブ書は信者の「行い」を強調した書として有名です。この3章の山上の垂訓とも関連が深く、類似箇所が11もあります。

7章だけに見られる類似点だけで5つありますので紹介します。

ü  マタイ7:1      ヤコブ4:11~12

ü  マタイ7:7      ヤコブ1:5

ü  マタイ7:16~20  ヤコブ3:12

ü  マタイ7:21~23  ヤコブ2:14

ü  マタイ7:24,26  ヤコブ1:22

 

 そしてこれもまた多く誤解を生んで来たところでもあります。

マルチンルターはローマ・カトリックの行いによる救いに対して信仰義認を再発見して宗教改革を起こした人として有名ですが、彼がこの書を「わらの書」だと呼んで軽んじました。一見すると行いによる救いが書いてあるように見受けられるからです。それはルターの誤解です。よく読めば、ヤコブは救いを受けたメシアニックジュー(イエスを信じるユダヤ人)たちに向けて、行いのない信仰は死んだものである、聞いただけで行いが伴わないのは先祖伝来の律法主義に浸っていて、メシアに対する信仰がないからではないか、と指摘しているのです。

 主イエスが説教を終えるにあたって二つの選択を迫りました。

もし聞いたままで行わないなら(すなわちここでの「行い」とは山上の垂訓3章の文脈からメシアに対する信仰です)、それは大多数のパリサイ人の義に留まる者であり、やがて試練のときに耐えられない。家を建設するときにやわらかい砂の上に土台を据えたようなもので、大雨、嵐、洪水の災害に耐えられず倒壊するようなものだと教えられたのです。

 

 普段は誰も「家」の中で安楽に暮らしています。

試練のときに真価が問われます。

もし貴方がイエスという岩にまで信仰の根を伸ばし、この方の教えの上に人生を築くならどんな試練が襲ってこようとも乗り越えることができます。

たとい最大の試練である死がやってきても、死の先にある神による最後の審判の瞬間を迎えてもメシアに対する信頼があるなら大丈夫です。

主はそのために地上に来てくださったのです。

主はそのために十字架で血を流し、死んで葬られ、三日後によみがえられたのです。

主の教えを喜んで聞くのはすばらしいことです。

聞いただけで終わらずに、信仰で応答しましょう。

主イエスをメシアと信じ、受け入れさせていただきましょう。