あなたより悪霊の方が勝るものがあるとしたら、それは・・・

マタイ福音書連続講解説教18  マタイ8章18~34節

メシアの5つの力ある業―その②

 {メッセージからの抜粋}

 

 

  これまで8章で3つの力あるメシアの業を見てきました。

その結果、主イエスの弟子になりたいと志願する人が二人現れたのです。

結論から言うと、その二人に主は不合格の認定をされています。

「どこにでもついていきます」という律法学者に対して、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と言われて、献身には犠牲が伴うこと、その覚悟ができていないことを告げたのです。

パフォーマンスに魅せられて追従するだけの者に、神の国での働きは不向きです。

 

 ここで主がご自身を「人の子」と自称されているのに注目しましょう。

これは主が多くの場合で使われてた呼称ですが、ダニエル7章13節から、メシア称号であることがわかります。ただ旧約聖書知識が充分でなかった一般民衆(彼らに印刷された聖書はないのですから、安息日に会堂で朗読されるのを聴くだけでした)にはそれが隠されていたことでしょう。政治的でローマ帝国から解放する王として祭り上げられるのを防ぐ意図があったものと言えます。

弟子たちのイエス理解も乏しいものでした。

それはガリラヤ湖で起こった嵐の際に露(あらわ)となります。

主が嵐に命じられると大なぎとなったので、彼らは「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」と畏怖します。

自然界を造られた創造主がその一端をコントロールするのはたやすいことですが、通常の人と変わらない2本足で歩き、疲労のため船の中で眠りこけている青年がその神ご自身であられると言うメシア理解に至るには、まだまだ訓練が必要でした。

 

 その弟子たちによりも、悪霊のほうがより正確なメシア理解をイエスに対して持っていました。

ガリラヤ湖対岸のガダラ人の地に上陸した一行に、二人の人に乗移った悪霊どもが出会います。

悪霊どもは主イエスのことを、神的権威を持たれた神ご自身であると認識していることが分かります。

①    彼らは主を「神の子よ」と呼んでいます。聖書では御使いや信者にもそのことばが使われている場合がありますが、その場合、常に集合名詞として複数形で使われています。ここで悪霊が使った呼び方は、イエスが神ご自身であられること、つまり第二位格の子なる神・メシアであることを知っているものです。弟子たちに勝るメシア理解です。

②    「その時ではないのに、もう私たちを苦しめにこられたのですか」と言っています。彼らはやがて神の白い御座の前に引き出され、宣告を受け、苦しむ時が来る事(黙示20:10)を知っているのです。それまでにはまだ猶予期間があるではないか、との主張です。

③    「底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った」(ルカ8:31)。「底知れぬ所」とはアビス(ギリシア語ではアブソス)という固有名詞が使われている悪霊どものために設けられた特定の幽閉場所です。そこはサタンとともに千年間縛られるところ(黙示20:2~3)でもあります。この千年期が過ぎた後に、火と硫黄の燃えるゲヘナで永遠の刑罰を受けることになっています。

「彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、底知れぬ所(アビス)に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。」 (黙示録20:2-3)

④    ついでながら現在暗躍している悪霊どもよりもさらに凶悪な悪霊どもは、タータラスに閉じ込められています。このタータラスも固有名詞ですのでそのままギリシア語表記した方がよいのですが、ユダ6では「暗闇の下」と訳されています。また同じタータラスがⅡペテロ2:4にも使われており、それとの関連からそこに永遠の束縛を持って幽閉されているこれらの堕天使は、創世記6章の「神の子たち」であることが分かります。人間の女性と婚姻関係を結んでネフェリムというけったいな悪霊と人間との混血を生んだ悪霊たちです。彼らは「女の子孫」(創世記3章15節)の誕生を阻止するためにそのような越えてはならない一線を越えた凶悪犯罪者です。それゆえ神様は大洪水と言う非常手段に訴える事になります。「女の子孫」=メシアの誕生を確保するためです。タータラスの悪霊たちはすでにさばきが決定されていて、千年王国の後にゲヘナに直送されます。

「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下(タータラス)に閉じ込められました。」 (ユダ1:6)

「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中(タータラス)に閉じ込めてしまわれました。また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」 (2ペテロ 2:4-5)

 

私たちはどれくらい主イエスの権威を認め信頼を置いているでしょうか。

     1. あなたの優先順位において

  • たとい犠牲を伴うことがあったとしても、主の弟子となる覚悟はあるでしょうか。それとも自分の都合を優先してしまうものでしょうか。

  • 救いは恵みによって与えられるもので、自己犠牲が条件ではありません。ただ無代価で救われた者は、主の召しがあるときにこれに応えたいと願うものです。

     2. あなたの専門(プロフェッショナル)分野において

  • ここだけは私がよく知っているので私のしたいとおりにさせてくれ、という分野がおありでしょうか。イエス様よりも自分の判断で決め込んでしまっている領域です。そうであるとしたら、あなたは主の権威をないがしろにしている事になります。

  • 船や海のことなら大工であった主イエスより、漁師の自分たちの方が詳しいと自負していた弟子たちでした。しかしあの嵐の中、主の自然界に対する権威に驚くことになったのです。

     3. 主は「神の子」として人と堕天使とを最後に審判される方であられます。

  • 人の死後における最後の審判です。そこで天国か、火の池に行くのかが決められる厳かな瞬間がやってきます。

  • 「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方」(マタイ10:28)を畏れようではありませんか。