主はなぜ民衆から距離を置かれるようにされたのでしょうか?

マタイ福音書連続講解説教21  マタイ9章27~34節
「メシアの5つの力ある業―その②」

{メッセージからの抜粋}

2人の盲人は、イエスへのメシア信仰を持っていました。
「わたしにそんなことができるのか」と直接主に聞かれた彼らは、「そうです主よ」と答えています。
「あなた方の信仰の通りになれ」と主から声をかけられると、たちまちに目が開いて見えるようになったのです。

その時、主は決して誰にも言わないよ気をつけなさいと、彼らに厳しく戒められたとあります(9:30)。
ここで、主はどうしてこのようなことを命じられたのでしょうか?
力ある御業を多くの人に知ってもらった方が人気も上がり、メシアとしての運動も広まったと考えられます。

ここに、2つの理由が考えられます。

❶民衆の抱くメシア観の違い。
この2人の盲人は、イエスの事を「ダビデの子」と呼びかけました。
紀元前1000年頃、近隣諸国を従えたイスラエル最強の時代を確立したのがダビデ王でした。メシアはこのダビデの家系から排出されると聖書預言にあります。今やローマ帝国に思い呑み込まれようとされるイスラエルにあってその国民感情は、独立運動家・政治的ヒーローとしてのメシアを求めるものでした。

それに対し、イエスご自身はご自分を「人の子」と表現されました。
この表現もまたメシアを表しているタイトルです(ダニエル7章13節)。
「ダビデの子」とは違い、政治的色彩や圧政からの解放者としてのトーンはだいぶ弱まります。
十字架で受難の死を遂げられるのが、この時の主の最終目的でした。
政治的、経済的、健康的な人々の課題の解決するためではなかったのです。

「ダビデの子」としてのメシアは、再臨において実現されます。
主が再びお出でになられる時、全ての国々は主の前にひれ伏し、主は諸国の王として地上を全く平和のうちに統治されます。

❷主は十字架の時を計算されておられました。
民衆からの支持を受ける大きさに比例して、体制側のパリサイ人からは反発を受けるようになります。主イエスを殺してしまおうとする力が働くようになるのです。
それで主が辻斬りのように殺されたのでは、聖書預言が成就しません。

主は聖書預言に従い、
⑴木(十字架)にかけられる方法で殺され、
⑵過越の祭りの時に殺されなくてはならないのです。

そこでガリラヤ伝道の後半では、群衆に対する働きから引かれて行くようになります。
奇跡が行われるとしたら、公の場ではなく隠れた所で個人的に行われるようになりました。しかも一般群集でなく、信仰のある人にだけ行われるようになります。
ガリラヤからエルサレムに登られる途中、最後の数ヶ月間のペレヤ伝道においては弟子訓練に集中されます。群衆からは全く距離を置いて、弟子たちへの教育訓練に集中しました。